ヴィンチェンツォ・ニバリが4つのグランドツアーを獲得し、 ‘Shark of Messina’として世界中で知られるようになるずっと前に、彼の父Salvatoreは弓のこで半分に彼の自転車をスライスしている。
「それは本当の話だ。私の学校での成績は良くなかったんだ。父はこう言ったんだ。
「お前がルールを守らないなら、自転車を半分にするからな!」
私はまさか本当にするとは思ってなかったんだ。学校から悪い知らせきが来た時に、父は私の自転車を本当に真っ二つにしたんだ。」
二つにされたバイクは中古のピナレロだった。
メッシーナでの少年時代
ニバリは神聖な地であるシチリア島メッシーナ出身。
「1か月後、私の学校の成績は急速に良くなったんだ」とニバリは認める。
彼の父親は激しい気性のために ‘Lupo’(ウルフ)と愛称で呼ばれた。父は息子の自転車を溶接して乗れるようにした。
この事件は若いニバリに勤勉、誇りと献身の価値を教えた。それは彼が50以上のプロの勝利に駆り立てた資質となる。
ニバリは、3つのGrand Toursの総合優勝を獲得した、歴史上わずか7人のサイクリストのうちの1人。
彼は自分の古い写真を持っている。彼の自転車が母親のGiovannaの車に取り付けられたロープでエトナ山の火山の斜面をけん引されている10歳の時の写真。
「私はサイクリングが好きだった父と、メッシーナからエトナの頂上までのアマチュアのグループで走ってたんだ。
こんな長い登り坂を走ったのは初めてだった。 エトナ山を25キロ登り、頂上近くで、さすがに疲労困憊。それで車からロープだして自転車を引っ張ったんだ。私は若かったけれど強くはなかった。」
スパルタだった。
ニバリは、彼のキャリアの成功を、シチリア島で育った経験があったからと思って良いだろう。
彼の2016年の自伝の称号は「激情と忠誠」。
「レース中は常に欲望と厳しい精神を必要とする。激怒するだけでなく、良い戦術だけでもなくハートも必要だ。
私はここまで一人でトップにたどり着いた訳ではなく、忠誠心、家族、チームメイトと友人が私の成功を助けてくれたんだ。」
レーシングスピリット
34歳の彼は、妻のRacheleと娘のEmmaとスイスのルガノに住んでいる。
ヴィンチェンツォ・ニバリとはバーレーン・メリダチームを後援しているロンドンのWorld Travel Marketでインタービューした。
「バーレーンを訪問するとき、私はフォーミュラ1トラックでゴーカートをするのが大好きなんだ。とても楽しいんだ。
自分のバイクでもF1サーキットを走ったけどゴーカートは最高だね。」
ニバリのカーレースへの情熱は熱狂的だ。彼はトスカーナのムジェロサーキットでポルシェ911も走らせている
今日のバーレーンへの旅行でもスタンドにドライビングシミュレータがあって、彼は夢中になってしまい長い間乗っていて、インタービューが中々出来ないでいた。
ジーンズとスマートブルーのジャケットを着て、ニバリは恥ずかしがり屋の落ち着いた雰囲気を醸し出しているが、彼のバイクでの走りは動物的本能と勇気によって研がれた、素晴らしいく情熱的なライダーだ。
サイクリングに対する彼の情熱は、パーツに対するこっけいなこだわりから始まった。
子供の頃、彼は新しいハンドルバーを常に考えていて、サドルポジションを微調整していた。 父親は彼に新しい自転車部品の見返りに家事をやらせる人だった。
パーツを買う為にサイクリング大会の写真を撮るアルバイトもしたことがある。
「最初は自転車の整備が好きだったんだ。プロの整備士と同様に、自転車を分解してすべての部品を取り外し、それらを元に戻すことができるライダーの1人だと思うよ。」
この魅力を彼は今も持ち続けている。
「1つ変えることができるならば、タイムトライアルの自転車デザインのルールを緩和するね。
今のルールは良くない。クリス・ボードマンは何でも良いものは使う最後のライダーだったけど、自分もすべて新しい技術を使用したいと思う。
他のスポーツは好きじゃなかったんだ。サイクリングは探索出来るし自由があるだろ。9歳の時に買って貰った中古のピナレロは軽くてもっと自転車が好きになったんだ。
少年時代には、あまり多くのレースがなかったので、私はメシナ(北海岸)からシラキュース(南)まで何百キロも走らなければいけなかったんだ。
車の中にはいつも沢山の荷物があったね。弟と両親がいつも一緒だった。」
技術に対するニバリの幼年期の情熱はすぐにレースへの飢餓に変わった。
一度だけ、自転車をやめたいと思ったこともあったと。一人で練習しているのがつまらなかったからだと。
そんな時、父親は近所の若者を集めてくれて一緒に走らせてくれたそうだ。それも良い思い出となっている。
グランドマスター
16歳のニバリは、シチリアから1000キロも離れたトスカーナに移った。彼の地元にはレースもチームもなかったので本土に移るしかなかった。
レースの成績がよかったので、2001年にトスカーナにあるGSマストロマルコというチームの監督、フランチェスコ・カルリの目に止まり、私の成長を信じて、トスカーナに来ないかと誘って貰ったのだ。
両親は反対しなかったので、高校生でしたが行くことを決心。 だが、最初の1年間はとてもつらかった。
チームが用意してくれた合宿場に住んでいたが、毎日学校のあるエンポリ市まで1時間をかけてバスで通い、帰ったらすぐに練習を始め、晩御飯を食べたらすぐに寝る生活。
卒業をするのに、夜間高校も通った。2年目はカルリ監督の家で住むことになり、まるで自分の息子のように接してくれ精神的にも支えてくれた。
私のためにアンダー23のチームも作ってくれるほど。でも、ジュニアイタリアチャンピオンに輝いたのに、U23に上がった途端に勝てなくて。
悔しくてサポートカーで泣いたこともあったが、監督は「勝つ時はきっと来るよ」と言ってくれた。
様々な人の支えがあって、成長できた。だから今は私自身がGSマストロマルコのスポンサーになっている。
Un grande in bocca al lupo al @team_mastromarco Sensi Nibali 🦈.
I nostri ragazzi domani inizieranno a sfidarsi per La Rosa, quella del Giro d’Italia 🇮🇹 Under 23 . La corsa più dura del mondo nel paese più bello del mondo #goodluck #girounder23 #challenge #fight pic.twitter.com/63TRnwrGS1— Vincenzo Nibali (@vincenzonibali) 2018年6月6日
2005年にFasso Bortoloとの最初のブロ契約にサインした後、ニバリは2006年から2012年までリイクガスで走った。
そして2010年にブエルタ・ア・エスパーニャでグランツール初優勝を遂げる。
「私は最後から2番目のステージを覚えている。Moladel Mundoの頂上だ。 私にはパワーがあったが、クライマーに勝てるかどうかはわからなかった。」
「私はライバルから30秒しかアドバンテージがなかった。それで私はエセキエル・モスケラ(全体で2位)の後輪をたどり、これだけに集中したんだ。
私はチームから圧力を受けおらず、全力を尽した。そして私にとって最高の勝利がもたらされたんだ。」
2013年にはジロ・デ・イタリア初優勝。
ニバリのツール・ド・フランスの栄光は、彼のレース体重を64kgに、そして体脂肪を6.1%に減らした後、2014年にやって来た。
それはパスタと干し杏子の軽食によって達成されたハードワーク。
「私がハードトレーニングキャンプで朝食にパスタを食べている時には誰も私を見ない。」と彼は言う。
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ニバリは、高いレベルで、ここ数年でさまざまな財産を経験してきた。
彼は2017年に2度目のイル・ロンバルディアを獲得し、2017年にジロとブエルタで表彰台を獲得。
彼の2018年シーズンは、ポッジョへの単独攻撃とツールドフランスでのクラッシュでリタイア。その後にミラノサンレモを獲得することが出来た。
📽️ Rewind the Season 2018
📅Date: 17th March
⏱️Avg. speed winner: 40.21km/h
📍Start/finish: Milano➖Sanremo (294.0k)🇮🇹 @vincenzonibali of
🇧🇭 @Bahrain_Merida wins
🇮🇹 109th @Milano_Sanremo#MSR pic.twitter.com/NmfThPSrbP— Cycling_360 (@cycling_360) 2018年12月18日
「ミラノサンレモに勝ったことは大きな感激だった。
実はソンニ・コルブレッリをアシストするチーム戦略だったんだけれどチャンスが来たのでアタックしたんだ。スプリンターが追いつく前にゴール出来たね。」
ツール・ド・フランスでは、アルプ・デュエズで見物人のカメラストラップで落車。骨折してしまう。
彼のチームは、ツアーの主催者であるASOに対する警察のオートバイの存在、ファンの侵入、そして発煙筒からの煙のすべてが混乱の一因となっているとして訴訟を検討している。
「警察のバイクが先導してたのを覚えている。クリス・フルームをマークしてたんだ。
トム・デュムランとゲラント・トーマスは25メートル後ろだったかな。クラッシュした場所はスペースが狭くて、ファン近すぎたんだ。まあ、よくあることだよね。ファンは旗を振って最後の2秒でそれらを持ち上げるから、とても危険なんだ。」
プロプロトンのライダーが特化した今の時代、ニバリはグランドツアーだけでなくクラシックへの参加を尊重している。
「私たちプロライダーが全員これをやれば、ロードレースはもっと観客にとって楽しく、エキサイティングになると思う。
私の哲学はあらゆるレースに勝つことをチャレンジしてみることだ。 しかしもちろんこれは私の考え方だから、他のライダーについて語ることはできない。」
ニバリはまた、アタックでレースを活性化することが彼の義務であると考えている。 彼の自伝で、彼はフルームのスタイルを ‘ ロボティコ ‘と表現。
「私の人生は衝動的だ。私がレースするときは、本能で走る。レース中にアタックするチャンスがあることを理解している。
レースの前にスポーツディレクターとレースプランについて話し合うけど、レース中に何が起こるかは私次第だね。
私は自分の体の中や、頭の中に自分がアタックできると感じる瞬間が好きだ。 本能的なライダーだね。」
挑戦以上に楽しいことはないとニバリは言う。
レース前に全てのコーナーを何回も繰り返し体で覚える。敵を惑わすコーナー。注意すべき箇所など。レースの勝因となる全ての要素をニバリは頭の中に入れている。
相手のペダリングからわかった限界値、グループからの距離など、すべての状況を分析した上で、アタックポイントを決め本能で動いている。
強靭な身体的能力だけでなく、研究によって育んだ鋭い感覚と知識からアタックが繰り出されている。ただ単に本能だけで走っている訳ではない。
ニバリは2019年のグランドツアーでの成功をさらに渇望している。彼はツール・ド・フランスでの限られたタイムトライアルとジロのキラークライミングに魅了されている。
「ジロもツールも魅力のある美しいレースであり、両方走りたいね。それは難しい挑戦だけどね。
さらに先を見たとき、3つの目標があるんだ。世界選手権に勝ちたい!。それと、リエージュ〜バストーニュ〜リエージュ、それとオリンピック。
でも、私はまだサイクリングの歴史上の人ではないからね。引退したら自分の足跡をたどるかもしれないけれども、今のところ、私はただ勝ちたいだけだ。」
「メッシーナ海峡のサメ」というあだ名の由来は?
友達が横断幕を作ったのがきっかけ。たまたまサメを書いただけだ。実際に私の故郷のメッシーナではよく出没する。とても小さいサメなんだ。
1984年11月14日イタリア シチリア島のメッシーナ生まれ。
3歳から自転車を始める。
2000年: GS Mastromarcoチームに加わるために16歳でトスカーナに引っ越す。 2年後、彼はイタリアのジュニアロードレースのタイトルを獲得。
所属チーム
2003−2004年 マストロマルコ
2005年 ファッサ・ボルトロ
2006-2012年 リクイガス
2013-2016年 アスタナ プロチーム
2017年 バーレーン・メリダ
2007 GIRO DI TOSCANA(優勝)
2008 GIRO DEL TRENTINO(優勝)
2009 GIRO DELL’APPENNINO
2010 GIRO DI SLOVENIA(優勝)、GIRO D’ITALIA(3位)、VUELTA A ESPANA(優勝)
2011 GIRO D’ITALIA(2位)
2012 TIRRENO-ADRIATICO(優勝)、TOUR DE FRANCE(3位)
2013 TIRRENO-ADRIATICO(優勝)、GIRO D’ITALIA(優勝)、VUELTA A ESPANA (2位)
2014 イタリアナショナルチャンピオン、TOUR DE FRANCE(優勝)
2015 イタリアナショナルチャンピオン、GIRO DI LOMBARDIA(優勝)
2016 GIRO D’ITALIA(優勝)
2017 GIRO D’ITALIA(3位)、VUELTA A ESPANA (2位)、IL LOMBARDIA(優勝)
2018 ミラノ・サンレモ(優勝)
コメント
まだ若手の時代、逃げの最中、ランスアームストロングに面と向かって『おまえも引けよ。やってやんねぇわ』って言えるオトコは違いますね。
赤タイムさん、コメントありがとうございます!
ランスに対してそんなこと言ったんですね。普段は謙虚な人みたいなのですが、自転車に乗ると人が変わるのかも。
パワーメーター管理の走りに対抗出来る唯一の人なので、本能のアタックに今後も期待です。