カンピッニシモの称号は自転車史上二人にしか与えられていない。
長い自転車の歴史の中で「カンピオニッシモ」と呼ばれているのは、エディ・メルクスとファウスト・コッピだけだ。
チャンピオンの中のチャンピオンのこと イタリア語で Campionissimo
今でもジロ・デ・イタリアの最高到達地点の場所はチマコッピと呼ばれている。
チマコッピとは
ジロのコースの中で、その年に最も標高が高い峠に敬意を表す呼称で、1965年から制定されている。チマはイタリア語で峠を意味し、コッピは自転車史上最も偉大なチャンピオンであるイタリア人選手ファウスト・コッピからその名がとられている。
そのファウスト・コッピが乗っていたとされるPersonal Bianchi Road Bicycle 1946が販売されている。
Fausto Coppi Personal Bianchi Road Bicycle 1946
ファウスト・コッピは間違いなく、20世紀で最も才能のあるサイクリストの一人であり、ジーノ・バルタリの場合と同様、第二次世界大戦が彼の最良の時期を奪っていなければ、彼が何を達成できたのか想像するのは難しい。
彼のレーススタイルは、「すべてのチャンピオンの中のチャンピオン、カンピオニッシモ」というあだ名を与えられる。
ブレークアウェーでは残酷なほど支配的で、最初の驚異的な勝利は、20歳のときに達成された。
レニャーノチームのジーノ・バルタリがクラッシュして重傷を負ったため、自分のためにレースに出ることを許された。
彼はイタリアで最も権威のあるステージレースで優勝した最年少ライダーとなっている。
軍に徴兵された後、トラック上で最速の男になるためにトレーニングを積んだ。1942年に45871mのアワーレコードを達成。この記録は、ジャンク・アンクティルの時代(1956年)まで抜かれていない。
フゥウスト・コッピは、同一年度内にツール・ド・フランスとジロ・デ・イタリアの両方を制する「ダブルツール」を1949年、1952年の2回達成。
1953年にはジロ・デ・イタリア5回目の総合優勝と世界選手権制覇を果たし、最強の名をほしいままにした。
フレームにはシリアル番号が表示されている。これは、Bianchiの「Reparto Corse」エリート マニュファクチャリングによってコッピ用に作られた 6個のフレーム (ロード用 3 個、トラック用 3 個) のうちの 1となる。
Steel Vintage のリストによると、実際のフレームビルダーは、1940年代から50年代に活躍したイタリアの有名なマスター フレーム メーカー、ルイージ・ヴァルサッシナで、チネリでも働いていた。
フレームのラグ、特にシートステーとステアリングチューブを固定するラグは、「ユニークなデザインの強化」を明らかにしている。
1940年代の平均的なサイクリストと比較して、コッピが課していた余分な力とパワーに対処するために強化された可能性があると考えられている。
特徴は、4速フリーホイールのCampagnolo Corsa シフティング。これは、Campagnolo Corsaを搭載した数少ないバイクの 1 つ。
コッピは 1949年にシンプレックスを装備したバイクでツール・ド・フランスで優勝。
1951年に Campagの革新的な Gran Sport ディレイラーが発売されたとき、コッピはそれを使用して 1952年のツール・ド・フランスで優勝している。
フロントはシングル。リアは4速でアルプスの山々を走破したのだから、凄い脚力。
この自転車には FOMペダルが装備されている。これはコッピが好んで選択し、レニャーノで過ごした時間を思い出させるものだと言われている。
トップチューブには特徴的な「F」の文字とコッピのサインが書かれている。
ファウスト・コッピは、レースの才能だけでなく、革新性と先駆的な精神によって自転車競技に革命をもたらした。
Bianchiとの彼のコラボレーションは、自転車戦術、トレーニング方法、技術の進歩を再構築し、アンクティル、エディ・メルクス、ベルナール・イノー、ミゲル・インドゥライン、クリス・フルームなどの将来の自転車界の伝説の成功の基礎を築いている。
価格は18,989,821円。更に多くの写真は以下の公式サイトで見られる。
コメント
「「ダブルツール」を1970年、1972年、1974年の3回達成」したのはエディ・メルクスですね。ファウスト・コッピは1949年、1952年の2回です(Bianchiはこれにマルコ・パンターニが達成した1998年の末尾を合わせた「928」を車種名によく使っていました)。
maclaさん、教えて下さりありがとうございます。928 SLって、チェレステーカラーではなかったんですね。
初めてしりました。また、教えて下さい<(_ _)>